2002−2003ジャパンパラリンピックスレッジホッケー競技大会
おっかけレポート

by あぢゃ(元 東京アイスバーンズ広報・企画担当)


冬季ジャパラ・初の同時開催実現へ・・・

ソルトレークシティパラを直前に控えた2001年12月、例年よりも早いスケジュールでジャパンパラリンピック冬季競技が開催された。この時から、2002年度の大会は青森県にてアルペン、ノルディック、スレッジホッケーの3競技を行いたいという話が伝わってきた。青森といえはノルディックの野沢選手、アルペンの四戸選手、そして八戸バイキングスと名うての選手の地元である。中でも野沢選手、四戸選手は県内障害者スポーツの拡大に努力されており、青森県障害者スポーツ協会をNPO法人とするなど、活発な活動を行っている。

折しも2003年2月には、青森県内で冬季アジア大会が開催されるなど、『スポーツ立県』としての青森の活動が盛んになってきた。残念ながら冬季障害者競技実施国数がいずれの競技も少ないこともあり実現できなかったものの、「ウィンターフェスピック」という構想もあった。そんな背景もあり、アジア大会から続く各国と青森県の親善事業の一環として、日本と並ぶスレッジホッケー競技国である韓国にも参加を呼びかけ、2002−2003ジャパンパラリンピックスレッジホッケー競技大会は開催された。

八戸市は冬季アジア大会のホッケー競技会場としての実績もさることながら、「東北の氷都」と呼ばれる地域であり、その土地柄ゆえに東北唯一のスレッジホッケーチーム「八戸バイキングス」が結成されている。また、チーム結成後はじめて企画から運営を行った「日韓スレッジホッケー親善試合」(2001年9月)の実績もある。しかし、公式戦参加実績のある国内4チームが集結する国内大会の経験は今回が初めてとなる。

3月開催はサラリーマンにとって痛手

いよいよ2003年に突入すると、各チームにジャパラエントリーの打診が入るようになる。開催日時は3月6日から9日まで(試合は7日から)となっている。’98シーズンから東京アイスバーンズとしての遠征のすべてにチームスタッフとして同行を行ってきたワタシではあるが、一般サラリーマンにとって3月は年間でも有数の繁忙期となる。ましてや昨年3月、ソルトレークシティへの強行ツアーに参加したばかり。職場の負担を考えると休暇をとってエントリーすることは難しい。ましてやプレイヤーとしてはまったくトレーニングを行っていない状況であった。日程が固まらなかった時点では、障害者スポーツ指導員として大会運営補助業務を引き受けても良いという意思を、主催者である日本障害者スポーツ協会へ申し入れていたのであるが、チームにも、主催者にも、そしてホストチームであるバイキングスへも迷惑をかけたくないという気持ちが強く、今回は名を連ねることを辞退することとした。

3月6日夜、東京駅丸の内南口に設けられた障害者用待合室に、先行して現地入りした郷選手を除いた今回のアイスバーンズ参戦メンバーが集結した。東京駅まではそう遠くないロケーションに勤務するワタシは、仕事を早々に切り上げ東京駅へ向かった。幸い、全員集合時間前には揃い、早めの移動を行う事ができた。思えば、アイスバーンズはこれまですべて自家用車での移動であり、団体行動での遠征ははじめてである。修学旅行的な明るい雰囲気の車内をホームから眺めると、かなりの寂しさを感じるものであった。

1泊2日の強行スケジュールへ・・・

7日には開会式、そして第1回戦が開催となる。長野VS八戸、そして東京VS北海道。「日本の守護神」永瀬がまだカナダ留学中とはいえ、健常者GK3人の中でもっとも実績のある土井選手が守りを固める。FWにも健常プレイヤー最多得点者である羽田野選手、そしてCマークをつけるDF須藤選手。’02年8月の東京大会2002では「蝦夷陸奥倶楽部」としてのエントリーだったが、今回は高瀬コーチの地元、釧路からの新戦力も加わり今充実したチームである。我らがアイスバーンズはといえば、ここ4年でもっとも出場プレイヤーが少なく、かつ練習時間も限られてきた。チーム全体が波に乗る北海道だけに、油断をすれば危険が待っているともいえた。

ここで勝利すれば、チームとして初の経験となる海外チームとの対戦、そして順当に勝ち上がるであろう長野との決勝戦が待っている。逆にここで負ければ残る試合は仮セレクトして臨むJPN戦に何名かのプレイヤーが出場するだけとなる。。寂しさを解消させるべく急遽八戸入りを決意したものの、イエロージャージの試合を一度も見れないとなるとわざわざ八戸に出かける意味も半減する。

日帰り出張が決まっていたこの日、、パソコンの電源を落とさずに、Sledge-Hockey Web JAPANページのリロードを繰り返す。5−0の完封勝ちの一報が入ったのは、外出のまさに5分前であった。

出発前から嵐のヨカン・・・

出張を終えて帰宅する途中で、東京駅へ立ち寄ることにする。ちょうどこの時期は、「JR東日本パス」という名称で週末限定の超破格切符が発売されていた。東京−八戸の正規料金以下の値段で往復も可能なのである。メンバーを見送った時点で、移動するならばこのパスを使用することは心に決めていた。

ところで、メンバーも使用した東北新幹線「はやて」は、現在の終点、八戸まで進む唯一の新幹線である。「はやて」は全席指定が売りの路線であるが、そこに大きな落とし穴がある。座席指定ができなければ、乗車のしようがないわけである。しかも、JR東日本パスを利用した東北への旅行ツアーが相当数組まれているということで、座席はすでに満席となっている。早くて14時台の東京駅発、となると試合はすべて終了しており、「飲みに行く」だけになってしまう。さすがにそれは・・・と渋っていると、「立席」なる『座席』があるという。しかも、これも指定制なのである。できるだけ早くリンクに行きたかったので、とりあえずその「立席」と帰りの座席を何とか確保した事で、とりあえず八戸へ出発の見込みをつけた。

3回連続雪害!雪に襲われる氷上競技

郡山を過ぎた頃から、車両のドアから冷たい風を感じるようになってきた。仙台駅では舞っていた程度の雪が、盛岡駅を過ぎた頃には吹雪となり、沿線の農道は田畑との区別がつかない状況。スレッジのジャパラといえば、過去2回も雪に見舞われている大会である。2000−2001シーズン(1月末開催)は、岡谷の観測所設置以来の記録的豪雪。2001−2002シーズン(12月中旬開催)でも長野市としては早めの雪に見舞われた。特に2000−2001では、会期中宿舎を兼ねるやまびこスケートの森に関係者が缶詰となってしまうほどであり、マスコミ取材班にまで影響を与えてしまった「伝説の」大会である。

そして今回。定刻どおりに新幹線は八戸駅へ到着したものの、その雪は弱くなるどころか酷くなる一方。海岸沿いである八戸は、青森県内では雪が少ない場所であるとともに、例年3月になれば大雪はないと考えられている。ところが、駅を出たワタシは幻滅することになる。翌日の新聞の見出しによって知ることだが、「3月としては観測所史上もっとも多い降雪量」の真っ只中であったのである。

新幹線開通に伴い大幅に整備されたロータリーはおろか、駅と市内を結ぶメーン道路もまったく除雪されていない。在来線はすべて運休(飛行機、フェリーも)だし、タクシー待ちの行列も凄い。かといってバスの路線はわからないし、レンタカーは予約してあったとしても運転の自信がない。多少の轍ならば乗りこなす自信もあるが、旅先のアクシデントは避けたいところである。

何とかタクシーに乗り込むも、市内の道路はマヒ状態。なんと会場まで1時間半もかかり(普通は30分程度で到着するはず)やっとの思いで会場へ到着した。実はプレイヤーも宿舎からの移動に時間がかかり、試合開始時間を遅らせていたのだが、残念ながら東京VS韓国戦の結果は会場に到着直前に電話で聞く事となった。

東京にとってはじめての、単独での海外チームとの対戦試合。「スレッジウィーク」身体障害者冬季スポーツ大会において、ホストシティチーム、として来日した各国の胸を借りてきた長野サンダーバーズとは、大きく異なる。ましてや日本国内チーム以外との対戦経験のない韓国チームである。前回、2001年と比較して彼らがどのような状況なのか、できることならば自身で確かめたかったのだが、残念ながらそれはかなわず。幸い、完封で勝つことができほっとしている。今大会での韓国と日本勢の差は、前回’01年と比べるとかなり少なくなっているという。恐らく公式戦での初勝利、いや初得点であっても士気がさらにあがることは間違いなく、日本のアドバンテージもなくなってくるであろう。そのきっかけを東京が作ることになっては困るところもある。この点、難しいところでありレベル差がありすぎるとプレイヤーは勿論、応援する側もつまらなくなってしまうものだが、かといって追い越されるのもチーム関係者としては心配である。わがままではあるけれども、当事者としては当然の気持ちであろう。

とにかく、東京チームとしての出番は決勝戦のみ。一度も試合を見ることなく大事な一戦を迎えることになった。


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