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Vol.12:『体力、気力、努力』 〜駅伝って、箱根って・・・なに? Part2〜

さて、前回に引き続き駅伝という競技について考えてみたいのですが、その前に北京オリンピックの日本代表選手選考会であったレースがすべて終了し、派遣選手が確定となりました。名古屋国際女子マラソンでの高橋尚子選手の失速など、いろいろな話題がありましたが、今回のコラムでは女子の話は機会がありましたら考えてみることにしましょう。

東京マラソンでは入船、諏訪、梅木という本命として招待選手エントリーだった各選手を振り切った新星、JR東日本の藤原選手が大健闘。その藤原選手を上回る記録をびわ湖毎日マラソンで出し、日本代表最後の切符を手にしたNTT西日本の大崎選手。過去も日本代表の経験のある大崎選手はともかく、藤原選手は一般選手ということで突然登場したシンデレラボーイのような扱いもありました。そんな彼も、実は2008年のニューイヤー駅伝でエース区間の2区を走り、それも13人抜きという劇走をした選手でした。そして、今までに名を挙げた5名の男子選手も、そして他の北京大会日本代表に選ばれた佐藤、緒方の両選手も、皆箱根駅伝に出場した経験をもっています。

現在の企業スポーツは以前もコメントしたように、事実上プロといっても差し支えない姿をしてます。競技に専念できる体制、トレーニング設備や合宿所、コーチをはじめとするスタッフを抱えたトップチーム。その一員となるためには学生時代の結果が必要となります。大崎選手のように、かつてはサラリーマンとして通常業務を行った後にトレーニングを重ねて代表候補になるケースもありますが、その大崎選手とて脚光を浴びてからは業務が軽減され、競技に集中できる環境を得ることができました。今や箱根駅伝は日本の男子中・長距離陸上界で活躍するための必須経歴といえます。もちろん、ユニバーシアードのような国際大会は学生スポーツの世界でも盛んなわけですが、こと中長距離陸上の世界となると、箱根でどんな走りをしたかどうか、も重要なポイントとなってきます。

優勝チームの一員であるかどうか、も大事なポイントではありますが団体競技でありながら個人の戦いである駅伝独特の仕組みとして、そのチームの中で光る走りのできた選手もまた、大きな評価を得るわけです。その好例が法政大出身の徳本選手や坪田選手といえるかもしれません。

ところが、これも繰り返しになりますが箱根駅伝は関東陸連主催のローカル大会。今となっては全日本、出雲といった大会もあり、これらの大会ではしばし関東勢を脅かす他地域の大学も登場してきましたがその知名度、さらに総合力では関東勢と大きな差があります。何よりも正月のTV中継を見て陸上を志す子供たちが増え、そうした未知の才能がインター杯で活躍し、実力ある高校生が箱根出場校に集まり、切磋琢磨することで日本の中・長距離陸上全体のレベルアップが実現できる、というのが現在の日本陸連の強化の考え方といえるようです。関東に所在する大学であっても、今日の箱根駅伝は出場希望校が増加しつづけ、シード校以外は予選会で上位に入らなければ本戦出場はできません。秋には出雲、全日本があり、さらに箱根予選会を勝ち抜いた上で、正月の箱根を目指さねばなりません(実際、全日本の出場権がありながら箱根予選会にも出場しなければならないチームは毎年多数あります。近年では早稲田、法政など)。かくも箱根で活躍するという結果を得るための過酷な競争があるわけです。

そういう状況にありながら、近年になってチームを創設・強化する大学が増えてきました。群馬・上武大学の花田勝彦監督(京都出身・早稲田)、埼玉・城西大学の櫛部静二コーチ(山口出身・早稲田)、埼玉・武蔵野学院大の神屋伸行監督(兵庫出身、駒澤)・・・いずれも箱根で活躍したかつてのエース達を監督・コーチとして迎え入れています。これらの大学は第二の山梨学院大を目指しているわけです。箱根で上位の成績を続けることで、マスコミの注目を浴び、大学としての知名度、そして大学のレベルアップに繋げようという、私学が生き残りをかけた経営戦略としてのツールとして、駅伝は捉えられています。それは新興校ばかりではなく、早稲田を代表とする伝統校・名門校といわれる大学であっても同じ状況といえます。自らも現役時代箱根駅伝で活躍した、日本陸連の沢木専務理事もまた、アクシデント連発であった今年の箱根駅伝に関するコメントの中で、本来中距離やマラソンの優れた選手を育成する場である駅伝が、学生の競技活動の主となってしまうことは本末転倒ではないかと苦言を呈していました。

先ほども触れましたが、前大会でシード権を確保しない限り、箱根に出るためには予選会を戦う必要があります。この予選会ルールは同一コースを一斉にスタートし、チームとしての合計タイムで決まります。その差はわずか数秒という激しい競争です。さらに、シード校であっても、その中で絶えず競争が続く中から、自らをアピールすることでようやくわずか10名の「襷を繋ぐ者」という権利を得ることができるわけです。シード校の強さとは、そうした内なる競争によって切磋琢磨できることにあるとも言えるかもしれません。その集大成が箱根の2日間といえるわけです。内外のプレッシャーを跳ね返し、自分の走りを冷徹にこなすことが出来る者達だけが得られる胴上げシーン。しかし、そこに至るまでにコンディションを崩したり怪我をして出場を逃す選手も少なくありません。そして、不幸にも競走中のアクシデントという形でそれを迎えてしまうこともあります。

ところで、日本のマラソン界は90年代後半以降、オリンピックや世界陸上で女子選手が毎回メダルを獲得する一方、男子選手は毎回「惨敗」と叩かれる状況が続いてきました。太平洋戦争の爪あとからの日本の完全復興をアピールする場であった64年東京五輪では、そのハードウェアばかりではなくメダルの獲得数でも海外に並び、その力を見せつけることが選手団に科せられた使命でした。その重圧を乗り越え、3位入賞を果たしたものの、次大会での連続入賞へのプレッシャーに耐えきれず自らの命を絶った円谷選手の悲劇は今日まで語り継がれていますが、共に東京大会に出場した君原選手や寺沢徹選手の活躍が今日まで続くマラソン熱の発端であります。彼らの活躍なしに、後の宗兄弟も瀬古選手も中山選手も新宅選手・・・ 人気アスリートが注目を浴びることはなかったといえるでしょう。

TVコンテンツとしてのマラソン競技も、東京五輪なくしてはなかったことと思います。そして、これまで冬の日曜日の昼間に、生中継で放送される国内のマラソン大会中継でトップでゴールした彼らの姿に、 国民は「マラソン日本」という認識を感じて来たのでしょう。しかし、よくよく考えてみると日本人男子でオリンピック、世界陸上でメダルを取った選手というのは・・・

円谷幸吉(64年東京五輪・銅メダル)
君原健二(68年メキシコ五輪・銀メダル)
谷口浩美(91年東京世界陸上・金メダル)
森下広一(92年バルセロナ五輪・銀メダル)
佐藤信之(99年セビリア世界陸上・銅メダル)
尾方剛(05年ヘルシンキ世界陸上・銅メダル)

そうなんです。日本選手は世界の桧舞台で必ずしも常勝ではなかったのです。むしろ中山選手も宗兄弟も、実はオリンピックではその力を 出し切ることはできなかったのです。地元・日本での五輪での自国選手の入賞が、今日まで日本人の印象と してお家芸と認識している故の、彼らへの過大な期待なのでしょうか。

以前と比べマラソン競技が世界的に注目を浴びるようになり、その出場国が増えてきたことで、競技自体のレベルが一層上がってきたこと がいえると思います。特にもともと身体能力の高いアフリカ諸国が、個人の能力任せではなく近代的なトレーニングによる強化を行うようになってきました。アフリカから若くして日本にやってきて、大学や実業団チームで近代的な陸上競技を学んだ選手達が国に帰り指導者として本格的な活動を行うようになってきたのです。これも駅伝がもたらした一つの成果であり、そして日本にとっては新たな脅威を生み出したことでもあるといえます。

もう一つ、競技が国際化し、大会が大規模化することで日本で行われる大会に出場する海外選手が増えてきたことも大きな理由です。かつて、TV中継される(男子)国内大会の優勝者は、その時代のスーパースターが名を連ねてきました。しかし今日、日本人選手にとっての代表選考レースは海外選手の選考でもあったり、ライバルのリサーチの場でもあります。大会のレベルが上がる中で、日本人の実業団育成方式の選手が優勝しにくくなってきているのかもしれません。

男子マラソンの置かれた環境については、私はこのように見ていたのですが、一方で女子選手の活躍も目立ちます。トップの男子陸上選手の多くが大学卒であるに対し、女子選手の多くは高校を卒業した後にすぐ実業団入りしている点に気がつきました。女子も高校駅伝はあるし、実業団駅伝もあるとはいえ、男子競技よりも距離が短いものです。 そして何より、山越えはありません。

そんな違いに気づいた頃、前回少し紹介をしていたのですが、生島淳さんという方が書かれた一冊の本を手にとりました。タイトルは「駅伝がマラソンをダメにした」。著者の論としては、大学陸上界が駅伝、特に箱根に力を入れだして以降、大学生選手の育成方針が大きく変わり、しいてはマラソンという競技のレベルダウンを起こしているのではないか、というものでした。競走というものは個人の体力のすべてを決められた距離の中で使いきることです。20キロ、しかしアップダウンや山越えまである駅伝と42.195キロのマラソン。瀬古選手などが現役だった時代の駅伝はあくまでもトラックやマラソンが主で、駅伝はあくまでもサブ的なものだったようですが、現在は完全に独立した競技となっています。両方を同時に極めることは、無理な要求なのかもしれません。著者によれば、箱根駅伝がTV完全中継されるようになった1987年以降、陸上を志す若者の目標が五輪や世界陸上のマラソンでの優勝ではなく、箱根駅伝に変わってしまったのではないか、という仮説もありました。

先ほど挙げた新興校の監督・コーチの多くも、確かに卒業後はあまり目立つことなく後進の指導にあたっています。現役時代に天才と言われた渡辺康幸早稲田大駅伝部監督も、社会人になってからは怪我に泣き続けましたし、同時代の早稲田黄金期を共に支えた花田監督、武井監督もまた、現役選手としての時間は長くありませんでした。櫛部コーチはエスビー入社後4年で指導者への道を希望し退部、神屋監督も社会人時代はトラックとハーフ、そして駅伝中心の活動でした。アスリートとしての彼らの寿命を縮めたのが駅伝であるかどうかは、私には断言できません。それに件の本でも駅伝は決して悪としてとらえられているわけではありません。が、そんな中で記録上言えることは、彼らの全盛期は大学時代であり、そしてその時期の彼らがピークとした競技は、間違いなく「駅伝」でした。そういえば入船、諏訪、梅木の各選手はそれぞれニューイヤー駅伝の優勝候補チームとして勝つことを求められる戦いを元旦にしていました。藤原選手もニューイヤー駅伝で活躍をしましたが、彼の所属チームはまだ若く、大崎選手のNTT西日本に至っては今年は出場を逃しています。もしかすると、今年の五輪代表の座を巡っては、この辺の調整も影響があったのかもしれません。

今回のコラムを書き上げた際、PowerBoysのメンバーから紹介された言葉がありました。それは、かの駅伝の父、金栗四三が座右の銘としていた、「体力、気力、努力」というものでした。この言葉を知り、改めて駅伝競走とはなんであるか、ということを考えさせられました。孤独な競技であった長距離陸上に、団体競技の概念を持ち込み、そしてチーム間での競走を促進することで、長距離陸上のレベルアップを図ろうとした、金栗の発想。永年に渡り塗り替えられる記録と、絶大なる人気と注目を浴びるまでになった現在の箱根駅伝の状況は、まさにその言葉が具現化した一つの形であるといえるのかもしれません。

しかし以前のコラムでも書いたように、金栗が駅伝というものを考案したのは、より多くの長距離陸上選手を育成し、選手・チームが切磋琢磨することで、世界と対等に戦えるだけの強化を図るための方法論であったはずなのです。彼が見据えていたのは、自らも3度出場したオリンピックでの、後進の活躍だったのではないでしょうか。

母校や所属会社の監督についた渡辺、武井両監督はともかく、花田監督、神屋監督、櫛部コーチはそれまで縁が無かったところに請われて就任しています。もちろん、それぞれの母校の繋がりがあっての話ではありますが。

彼らが所属先に求められているのは、大学の名をあげるということ。前回のコラムで「監督ですらパーツなのかもしれない」と書いたのは若き指導者達を雇い主がどれだけの間見守ることができるのか、という不安を感じたからです。選手が大学生活の中で成長し、そして社会人チームでさらにレベルアップすることで、日本の中長距離陸上のレベルアップを図るという、学連や陸連の戦略にとって次のエース候補の原石を見つけ、磨くための手段であり場である大学チーム。同時にそれは、次代の指導者達を育成する場とも言えるのかもしれません。

金栗が描いた思想を受け継いでいるであろう陸連関係者と、結果・・・特に箱根駅伝の上位入賞が欲しい今日の大学当局の思惑にずれが生じないこと、そしてその結果本当の選手、そして指導者の力をそぐことがないことを、祈らずにはいられません。

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