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<ほーねっとのコラム− vol 4>

VOL.4 プロ野球とオーナー企業(2)

激動期のプロ野球改革元年もいよいよ終盤。毎年恒例の高校野球はもちろんのこと、世界水泳、世界陸上、そして世界柔道と日本人選手が大活躍する中で、プロ野球の話題はグラウンドの外側の話ばかり。肝心のプレイ、そして選手の活躍よりも外野のほうが盛り上がるのは、改革の成果かはたま弊害かという感じですね。

このところプロ野球ばかり話が進んでいますが、先日第67回都市対抗野球大会が開催されました。今年の優勝は川崎市代表である、三菱ふそう川崎。一昨年の優勝チームでありながら、リコール隠しなどの会社の不祥事への全社的な対応と、代表辞退・活動休止という苦しい時期を経ての復活。そこには苦境を支えあったチームメイト、同僚と地元の一体感があり、実にすがすがしいものがありました。かつての兄弟チームである三菱自工岡崎も、同じく活動休止、そして主力選手の移籍という困難を経ての代表獲得。三菱自工・ふそう関係者にとってチームの活躍は今後に向けた糧となったことでしょう。これぞ実業団チームの存在意義といえます。

一方、アテネ五輪女子マラソン金メダリストである野口みずき選手を擁するグローバリー陸上部。こちらも会社の強引な営業に対し監督官庁からの厳しい査察と処分を受け、主力事業である先物取引からの撤退を余儀なくされました。これに伴い多くの社員を解雇、陸上部も解散が決定したもようです。同社の営業については以前から多数の指摘があったわけですが、「野口選手のいる会社」という宣伝文句に会社・営業マンを信頼したという顧客も少なくないことから、同社陸上部、そして野口選手には競技環境以外の影響がありそうです。

さて、そんな中ですが、やっぱり今回もプロ野球の話を続けます。残念ながらリーグ加盟初年度は最下位に沈んだ楽天ですが、まったくの新設チームが初年度から成績をあげることは簡単なことではありません。楽天のちょうど50年前に新期参入し、3シーズンで他チームと合併することになったチームがありました。その名は「高橋ユニオンズ」。日本においては非常に珍しい、もと大日本麦酒の社長で、戦後閣僚としても活躍したオーナー、高橋龍太郎の苗字を冠したチームです。

太平洋戦争前にスタートしたプロ野球ですが、戦中は完全休止、多くの選手も出征し命を失い、またチーム母体も敗戦の影響を受けチームの体制を戦前に戻すことはできませんでした。そういった混乱期においてプロ野球は現在のセントラルリーグ、パシフィックリーグへ分裂、さらに別のリーグ構想までありました。今日まで日本球界の雄でありつづけようとする巨人や阪神の在籍するセントラルリーグはともかく、新興のパシフィックリーグはチーム数も花形選手も少ない状況からはじまろうとしていました。そんな状況を打破するために、戦前から財界人として球界と接点のあった高橋翁が私財を投じチームを設立することになったのでした。

大日本麦酒という企業は、戦時体制下における企業集中により誕生した企業でしたが、戦後再分割。このとき分割したビール会社というのが現在では国内トップシェアを誇るアサヒビールや、サッポロビールといった企業でした。しかし、当時は戦時体制下でも合併しなかった麒麟麦酒が圧倒的なシェアを持つなかで、高橋翁が関係する朝日麦酒は袂をわけたサッポロ(当時はニッポンビール)にも差をつけられていたのでした。そのうえ、高橋翁はそのときすでに経営の最前線からは離れていたわけで、文字どおりの個人経営でプロ野球に参入したのでした。 現在はもちろん、40年前といえども球団経営は簡単なものではなく、高橋翁個人の財力では限界もあったことから、文房具メーカーであるトンボ鉛筆がスポンサーとして参画、2シーズン目は「トンボユニオンズ」と改名します。

そう、昨シーズン当初に旧大阪近鉄が球団経営を放棄するきっかけとなったネーミングライツは、このころ既に実現していたのです。 ネーミングライツは実は戦前のプロ野球においていくつかの球団で例があります。当時の「ライオン歯磨」(現・ライオン)がスポンサーとして参画した「ライオン軍」はネーミングそのものであったし、当時はまだ贅沢品だった同社の歯磨製品を球場に持っていけば入場サービスを得られたりというプロモーションがこの時期にすでにはじまっていたのは驚きです。 トンボユニオンズとして再出発を図った2シーズン目も振るわず、わずか1シーズンでトンボ鉛筆は撤退、3シーズン目は再び高橋ユニオンズとして活動を行うことになったユニオンズ。高橋翁の情熱だけではチームを運営するだけで精一杯、結局このシーズンをもって他球団と合併、短い歴史にピリオドを打つことになったのでした。

大映スターズとの合併によりチームは大映ユニオンズに、その翌年には毎日との再合併、現在の千葉ロッテマリーンズの原型となる大毎オリオンズが誕生し、セ・パ両リーグ6球団ずつという今シーズンも堅持された日本プロ野球の姿が確定したわけです。その後も、特に後発のパシフィックリーグの加盟球団はしばし名称や体制を変えていきます。 前回も触れたように、新聞社と並び球団保有率の高かった業種のひとつが阪神、阪急に続けとばかり参入した南海、近鉄、東急、西鉄といった鉄道会社でした。

その中でも関東私鉄の雄、東急の総帥・五島慶太は阪急の小林一三と懇意であるばかりか、ビジネスモデルを追随していました。ターミナルには百貨店を開店、沿線の総合開発を行い住宅地から娯楽までそろえる手法は阪急を真似たものでした。実際、東急の手がけた「田園調布」は小林の助言により現在の姿となったと言われています。両者は密接な関係を築きながら、西の阪急・東の東急として競い合っていたのでした。 そんな東急の球団はフライヤーズ。当初は沿線の駒沢の地の球場をフランチャイズとしていましたが、後に球場は東京五輪の会場となり閉鎖。電鉄専務を兼務し球団オーナーに就任していた大川博が経営していた東映に経営を委託したのでした。

前述の阪急グループには東宝があり、また松竹もロビンスを保有。そして、パシフィックリーグのチーム再編の中心には大映の永田雅一がいました。映画業界もまた、球団保有に情熱を燃やしていた業種のひとつといえました。 映画は昭和20年代から30年代にかけて娯楽の王者としてまさに全盛期を迎えていました。興行という営業形態は野球も映画・舞台もある意味近いという認識があったのかもしれませんが、舞台や映画との大きな違いは、そこに筋書きがないということ。強くなければ人気を集めにくく、また人気を集めなければ経営は成り立たない。本業が順調ならばそれもよしですが、次第にテレビという新たな娯楽が日本を席巻しようという時期です。

松竹は早期に撤退、東映も大川オーナーの死去の後に赤字続きの球団を売却します。 後にその映画産業の後に娯楽産業の中心となったテレビ業界からTBS、フジテレビが球団を保有し、そしてさらに次に控えるインターネット産業からオーナーシップ企業が登場した今年、まさに娯楽産業の栄枯盛衰を感じますね(まだまだテレビは衰退していませんし、ネット産業が今後どうなっていくのかわかりませんがね)。 東映からフライヤーズを買い取ったのが、新興住宅販売会社の日拓ホーム。しかし、この会社は新興企業らしく新しいアイデアでチーム、そして球界の改革を試みたようですが、チームの人気回復にはつながらず、結局は1年で再びチームを売却してしまうのです。

シーズン中には7色のユニフォームで戦うなど、努力のあとはみられるものの、経営の不安定さはチームの士気が落ち、主力の移籍などの要因となり簡単には浮上できなかったのです。ちなみに日拓は現在も大手のパチンコホール運営会社として健在です。 今度のオーナーは大阪から全国区に発展しようとしていた日本ハム。今でこそ食肉業界最大手というものの、まだ当時は新興企業にすぎなかったわけですが、会社創設者である大社義規オーナーはチーム名称を公募し、ファイターズと改名。後楽園球場にフランチャイズを移転、大沢啓二氏を監督、そして球団フロントとして重用したのでした。そしてリーグ優勝のできるチームにまで育て上げ、熱心なプロ野球招致活動を展開した札幌へ本拠地を移転。北海道日本ハムファイターズとして地域に根ざした活動を行うまでになったのでした。

日ハム球団が誕生した頃は、大毎オリオンズから毎日、大映が撤退しこちらも食料品会社のロッテが経営権を獲得、そして永年福岡・平和台球場を本拠としてきたライオンズからの西日本鉄道の撤退と、オーナーの移転が続きました。ライオンズはリゾート・ゴルフ場開発会社の太平洋クラブ、さらにはクラウンライターと球団名が次々と変わります。この時も実はネーミングライツで、かつてのユニオンズのように球団を企業がスポンサードする方式を取っていましたが、やはりチームの再浮上は難しく、最終的には関東の私鉄を母体とする西武鉄道・コクドが買収、チームは所沢に移転します。 このように、めまぐるしいチーム名の変更や体制の変化が続くと、ファンはチームの応援熱がさがりがちです。もともとチームの成績が低迷する上に人気も落ちるのでは、宣伝効果どころかマイナスイメージまでつきかねません。

しかも経営は赤字で毎年多額の補填が必要となります。 単なる企業名の宣伝や規模拡大を狙うのであれば、いったん球団を買収・スポンサードし、企業名が浸透した時点で転売しても、球団を持つことで得られたネームバリューはすぐにはなくなりません。しかし、球団や選手、フロントはたまったものではありません。経営者・所有者が変わるたび、チームの方針は変わり、監督・コーチが変わる場合もあり、さらには本拠地の変更もありました。力のある選手は移籍という道を選ぶこともできたわけですが、やむなく球界を去る選手もありました。

そして、こうした動きは永年チームを応援してきたファンにはまったく関係のないところで起っていました。チームカラーの変化やチームの不安定さ、何よりも移転というトピックに球団を、プロ野球を愛したファンが球場から離れてしまったのでした。それは、単一チームだけの問題ではなく、リーグ全体、さらに球界全体にとってとてつもない損失でありました。なぜならば、野球は相手チームと対戦してはじめて成立する競技であり、それはダイヤモンドの上だけではなく、球場に集まる観客も巻き込んではじめて成立するものだからです。

相手球団が不人気となれば、その球団のファンは球場に来てくれません。自球団の応援団でスタンドが埋まったとしてもそこで繰り広げられる野球がお粗末では、自球団のファンにも影響がでます。もともとの赤字体質に、いっそうの影響がでかねません。 そこで既存球団の「オーナー」達は、球界へ新期参入しようとする企業に多くの課題を課すのです。多額の供託金や最低保有年数の設定など。こうしてプロ野球は安定を手にしたかと思われてきたのですが、実際には既存チームの保有企業の経営を縛る新たな問題となったのでした。

各球団が当初享受してきた「メリット」が年々薄れ、逆にその赤字体質が親会社の経営問題として健在化してきたのです。 鉄道会社にとっては観客の自社鉄道利用はあくまでも収入の一部でしかなくなり、球場の老朽化に伴う改築の必要性(改築よりも再開発の方が利潤が高い)もあった阪急や南海は早期に球団を手放し、球団を手放し損ねた近鉄は昨シーズン、数々の問題を引き起こすことになりました。

「一流企業(潰れるようなことはない)」であることが条件だったはずの親会社が経営に行き詰まり国の支援をうけることになってしまったダイエーのように、本体のビジネスに有効なツールとして利用価値があったのにもかかわらず球団を手放さざるを得なくなった例もありました。 経済事情の大きな変化、さらに市場主義経済の高度化に伴い、株主代表訴訟など経営者にとって赤字事業である球団保有は重大な経営リスクとなったのにもかかわらず、早々簡単に手放すことができなくなってしまうという矛盾。こうした問題が一挙に噴出したのが2004年だったのでした。

日本においては、あくまでも企業の外郭部門として実質上成立しているプロ野球球団。多くは本社から出向のサラリーマン経営者という、スポーツビジネスの素人がキャリアポストとして可も不可もない運営を続けてきたことは否めません。「オーナー」も本社の大規模化に伴い本社の要職についていた人物の名誉職的なポジションとなっています。

そうした中でオーナーらしく振舞うことができるのは本社の創業者(またはその一族)として今日も本社の経営を握ることができる人物に限られてきます。ロッテの重光家、広島東洋の松田家、日ハムの大社家そしてオリックスの宮内会長、新たなメンバーである楽天の三木谷社長、ソフトバンクの孫氏・・・一部、今挙げた以外に例外もいらっしゃるようですが・・・かつて名物オーナーと呼ばれた人々の多くは鬼籍に入り、そして彼らが経営していた企業の大半は今日球団を保有していないという現実があります。

日本ハムもまた牛肉不祥事を起こし、創業者であった大社氏は本社会長、そして球団オーナー職も辞任することになりましたが、最後までファイターズを愛しつづけ今年亡くなりました。大社氏は頻繁に球場に足を運び、選手を、スタッフを激励し、そしてファンとともに過ごしたと言います。そんな前オーナーをチームは親父と呼び、99番のゼッケンのついたユニフォームが贈られています。 本当にプロ野球を、球団を愛したオーナーがまた一人いなくなってしまいました。その志はご子息が受け継ぎ、北海道の地域球団として大きな成功を納めつつあります。

ファイターズを今日の姿に導いた名オーナー、大社氏のご冥福をお祈りし、今回のコラムを終了します。

ほーねっと

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