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<ほーねっとのコラム− vol 1>

2004年1月。伝統の箱根駅伝が80回目の大会を迎えました。現在では、関東学生陸上競技連盟(関東陸連)主催の1ローカル大会であるはずのこの大会ですが、実は日本初、いえ世界初の「駅伝」競技という由緒を持っているのです。ローカル大会ゆえに、出場資格があるのは関東陸連加盟の大学の陸上部に限られてきたわけですが、80回記念の今年、日本学連選抜チームが編成されて、関東圏以外の学生の参加が実現しました。もうひとつ、チーム戦である駅伝の中の個人賞として新設されたMVP、「金栗杯」の第1回目の受賞者となったのがその日本学連チームの一員であった、筑波大学の鐘ケ江選手でしたね。そんな箱根駅伝を見ながらふと思いをめぐらせたのが、今回のコラムです。

スポーツと大学のかかわり・・・

ところで、2004年は閏年。4年に一度の夏季五輪開催年です。サッカーW杯、F1グランプリと並ぶスポーツマーケティング3大大会。出場国数だけを考えれば世界最大のスポーツの祭典と言えます。現在、そのアテネ五輪の出場をかけた熱い戦いが各地で繰り広げられているのはご承知のところと思います。

近代五輪といえばフランス人のクーベルタン男爵が1896年にアテネの地で復活させたことは有名です。その出場国数は14カ国。いずれも欧米の先進国ばかり。ちなみに、この大会は男子のみ出場だったそうで、古代オリンピックに習い、「女人禁制」だったそうです。あらゆる点で欧米に肩を並べることで先進国の一員たらんとする明治政府にとっては、オリンピックも大事なプロモーションだったはずですが、その頃の日本といえば日清戦争終了直後であり、そのような余裕はまるでなかったということでしょうね。

五輪開催の折には必ずどこかで解説されるのが、日本の初参加。1912年のストックホルム大会、このとき出場した2名の若者はいずれも学生で、短距離の三島弥彦は予選敗退と棄権、マラソンの金栗四三も途中棄権。日本男子短距離界はこの時以来2003年の世界陸上・パリ大会まで「欧米人との体格や心肺機能の格差」という劣等感を引きずっていくことになるわけですが、実はマラソンの金栗四三は選考会で当時の世界最高記録を出していた、ということはあまり知られていないトピックではないでしょうか。

その金栗はストックホルムの後も第7回アントワープ、第8回パリ大会においても日本代表マラソン選手を務めています。東京高等師範学校の学生であった金栗は最後の出場大会の時は同校の講師の立場であり、後進を指導しながら代表を獲得しているということになります。このときは既に、Vol.0でご紹介していますとおり、「アマチュア規定」から指導者が除外されているわけですから問題はないのですが、仮にあの規定がまだ生きていたら、日本の陸上界・特に長距離の歴史は変わっていたかもしれません。

彼の所属した東京高等師範学校は現在の筑波大学の前身ですが、当時の学長であったのが講道館を興した嘉納治五郎であり、日本が五輪に出場するに当たりその環境作りを行ったのも嘉納でした。嘉納は柔道の近代化を進めると共に、国際化に尽力を尽くしたことでも知られています。その嘉納だからこそ、国際的な競技大会として確立されつつあった五輪への日本の出場にも奔走したのであろうことは、容易に想像がつきますね。

こうして、高等教育機関の学生らを中心として、日本のスポーツ界は形作られることになっていくわけですが、この高等教育機関からは別の動きも起こってきます。欧米から招かれた指導者、それに海外留学を経験した日本の若き教育者は、それぞれの技術・技能ばかりではなく自らが楽しんできたスポーツをも日本に持ち込んできているわけです。あくまでもこうした動きは余暇のひとつであったであろうと思いますが、スポーツというものには結果がつきものであり、いつしか学校別の対抗戦が起こるようになってくるわけです。今に続く「早慶戦」「早明戦」などが発端となり、やがて大学リーグが形成されていったわけです。

当時の日本において、高等教育機関に進む学生はその後の日本を背負うエリートという性格もあり、こうした対抗戦もまた、学業の間の余興のひとつであったと思われます。大学リーグが盛んになると共に、競技そのもののレベルアップが進むにつれて社会に出たエリート達の間で、仕事の合間の余暇としての実業団競技が始まるようになってくるわけです。そもそも、高等教育機関を卒業したエリートを採用できるような企業は当時でも大企業ばかりであり、その数も限定的であったことから同窓生が集いやすかったということもあるのではないかと思います。こうした形で日本の企業スポーツは今日に続く姿を形成していくわけですね。ちょっと話が急展開になりました。企業スポーツについては、また会を改めましょう。

教育の課程におけるスポーツの重要性は、個人の身体能力の向上ばかりではなく、精神の向上にも高い効果を持つ、ということは当時から認識されていたようで、現在の大学教育学部の前身となる師範学校が続々と設立され、将来の指導者達の教育がはじまっています。現代日本スポーツ界においても、高野進、山下康裕(東海大学)、齋藤仁(国士舘大学)、山口香(筑波大学)といった五輪出場経験者は教育の場に残り後進の指導にあたっています。優れた成績を収めたものが、指導者として優秀かどうかはなんとも言えませんが、若き競技者達が誰にも体験できるものではない経験を積んだ彼らのもとに集まるのも必然であり、チームの総合力はこうした形で好循環を迎えることになります。

ともあれ、日本における「スポーツ」は大学を中心として根付いてくるわけです。ボトムアップという意味では成功なわけですが、前述の通り明治政府の日本においては国威発揚の手段として、そして欧米諸国と肩を並べるための方策としてオリンピックでの成功を画策していくわけです。そのためには、高等教育機関をトップアスリートの育成機関とするのが一番と考えたわけですね。そこで、オリンピック選手としての経験を得た金栗や三島が、競技者として、あるいは現役の選手として後進の指導にあたっていくわけです。

レベルアップには実戦が一番。これは現在でも言えるセオリーといえますが、所詮は「教練」であり「余暇」でしかない(実業にはならない)スポーツです(これは、現在でも基本的には変わりがありません)。そこで最終的に全米を選手が交代しながら横断しようという企画を考えたのが、金栗だったのです。全米横断ともなれば必然的に走破する選手も多く育てていかなければなりませんし、また多くの選手に海外を体験させておくこともできます。合理的なプラン、ですがお金が相当にかかります。

そこで金栗は当時急速に伸びていた新聞社という存在に目をつけ、報知新聞社に後援を依頼します。報知にしてみれば異国で活躍する日本の若者達を追いかける記事が書けるようになるし、それが面白いものであれば発行部数も伸びてきます。ただ、この新しい競技が読者の興味を引くかどうかわかりません。そこでデモンストレーションとして開催されたのが「東京−箱根間往復大学専門学校対抗駅伝競走」、今日の箱根駅伝だったわけですね。結果的にこの全米横断というプランは実現しませんでしたが、このときはじめて生まれた「駅伝」という種目は、今日日本のみならず世界的な陸上スポーツとして注目を浴びるようになりました。

その駅伝の父、金栗四三の名を冠した駅伝MVPランナーの初代受賞者が、後進である筑波大学の選手であったことは、本当に偶然の積み重ねであったわけですがドラマチックなスタートとなったように思います。

ほーねっと

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